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国道388号×原田 須美雄すみおさん。

「正倉院」と言えば奈良の宝物ですが、正倉院を忠実に再現した唯一の建造物「西の正倉院」が美郷町南郷にあるのをご存じでしょうか?
その西の正倉院建設のプロジェクトリーダーであった原田須美雄さん。
須美雄さんがいかにして、この挑戦を成し遂げたのか、ご自身のルーツも振り返りながらお話ししていただきました。

アイデアマン

昭和21年生まれ、美郷町南郷出身の須美雄さん。
子ども時代は、いわゆるガキ大将タイプではありませんでしたが、いつも遊びの中心にいる、そういった面でのリーダーシップを持った存在でした。

片翼が畳一枚分ぐらいのグライダーを作って飛ばしてみたり、竹で筏を組んで川に流してみたり、遊びの内容は誰も思いつかないようなことばかり。
だから、友人たちは早く須美雄さんと遊びたくて、須美雄さんが家の手伝いを終えて、早く遊びに行けるように、みんなで牛のエサ切りを手伝ってくれたりもしたそうです。
よく友人たちが子ども時代の遊びを振り返って、「あんたとすっと楽しかったがね~」と話すそうです。

南郷村役場(現在は、南郷を含む3村が合併し美郷町になりました)で初めて行政職の採用試験が行われることになり、役場で用務員として働いていた須美雄さんはこれはチャンスだと思い、試験を受けると、見事採用されました。

仕事についてからも、子ども時代から変わらぬ根っからのアイデアマンで、若い頃は”何か当たれば…”という感じで、いつもいつも考えていました。
しかし、アイデアは良くても理解されなかったり、なかなか実現に至ることができず、悔しい思いをすることもありました。
そして、色々な経験や実績を積んで、いよいよ40代。
若い頃の思いもバネとなり、最高のタイミングで「百済の里」づくりに携わることになりました。

▲2歳ごろの須美雄さん。親戚のお兄さんと。生まれた頃から今に至るまで、親しい人たちからはずっと「すみちゃん」と呼ばれています。

▲小学校時代の須美雄さん(前列左端)。学校の飛行模型コンテストでは、全学年で1位をとったことがありました。

▲役場時代の須美雄さん(右)。はじめの配属は産業課で、測量など農業土木の基礎を学びました。そのおかげで、後に様々な企画に携わる際に、机上の空論ではなく、具体的に企画を立てることができたと須美雄さんは話します。

初めて見つけたわが村の有名なもの

「地方再生」が国のスローガンとなり、大分県が始めた「一村一品運動」が全国へ広がり始めた頃、南郷も何かないだろうかと模索していました。
しかし、アイデアとして出るのは、日本一の水車をつくろうとか、新しく何かを作るようなものばかり。
そこで当時の田原村長が「古いものじゃいかんのか」と提案したのが、南郷に伝わる”百済王伝説”を中心とした町づくりでした。

昭和61年、第1回目の調査団が派遣されることになり、原田さんもその一人として韓国へ渡りました。
そのことが新聞に取り上げられ、記事を見た村の出身者から、奈良の国立博物館で南郷の〝神門神社”の文字を見かけたとの情報が寄せられました。
すぐさま「確認してみよう!」ということになり、電話をかけて南郷の者だと名乗ると、電話口で「神門神社ですか」とすぐに理解されたようでした。
よくよく聞いてみると、正倉院にある宝物の鏡と同じ「唐花六花鏡」をはじめ、銅鏡が一カ所に大量にあることは極めて珍しく、考古学会では南郷の神門神社と言えば有名だということでした。

この時、須美雄さんは「はじめてわが村に有名なものがあった!」と天にも昇る思いでした。

さて、この貴重な“鏡”をどう生かそう?
“もう1歩2歩進めるともっと大きいものになる”―
須美雄さんはいつもそうやってあらゆる活動を進めてきました。
「小さな資料館を作るだけでは寂しい。それなら、本家が収蔵されている正倉院と同じものを作ろう!」

それが「西の正倉院」建設プロジェクトのはじまりでした。

村おこしは、手間がかかる

〝南郷には正倉院に収められているのと同じ、国宝級の貴重な鏡がある。
だから、本家を忠実に再現した正倉院をつくろう!”

須美雄さんには完璧なストーリーでしたが、村の人たちにとっては、あまりにも現実離れしたものでした。

村議会は難航の一途。
明確に反対する人こそいませんでしたが、よく分からないというのが大方のところでした。
例えば、日本に5枚しかない銅鏡の1つがあると言っても、それがどのくらい価値があるのかすら分かってもらえないのです。
須美雄さんは身も細る思いでしたが、村長とともに粘り強く説明を行いました。
「村おこしは、手間暇がかかる」。
須美雄さんが繰り返し発するこの言葉に、どれだけの苦労が詰まっているのかは、想像に余りあることでしょう。

しかし、ある時、流れは一変します。
ある発言力のある議員さんが、「話は分からん。しかしこのことに従ってやることは間違ってないんじゃないか。」と言いいました。
その言葉をきっかけに、他の議員さんたちも賛成の方向へ変わっていきました。

かくして、「小さな村の大きな挑戦」が始まったのです。

百済王伝説と百済の里づくり

【百済王伝説】
西暦660年、朝鮮半島の古代国家「百済」が、新羅と唐の連合軍によって滅ぼされました。
美郷町に古くから伝わる百済王伝説によると、その際に百済の王族たちは日本に亡命しましたが、船で筑紫野国に向かったところ、しけに遭い、百済の王・禎嘉王は今の日向市金ケ浜に、息子の福智王は高鍋町蚊口浦に漂着したそうです。
その後、それぞれ奥地に入り、美郷町南郷と児湯郡木城町に定住。死後、土地の人たちに神として祀られたと言われています。

▲神門神社(みかどじんじゃ)。創建は718年と伝えられ、百済の禎嘉王などが祀られる。

【師走祭り】 ー無形民俗文化財ー
旧暦の12月に行われる師走祭りは、別れ別れになった百済の王族親子を再会させるお祭りです。
比木神社に祀られた福智王のご神体が神門神社に祀られた禎嘉王に会うために90kmの道のりを巡行します。禎嘉王が山に火を放って追手から逃れた伝説にならい、約30基の櫓に火をつける「迎え火」は、壮観で毎年大勢の見物客が訪れます。
師走祭りは1000年以上も守られてきたと伝えられています。平成9年には、神門神社の屋根裏から1006本の鉾見つかり、判読可能なものにはすべて、(師走祭りの行われる)12月に奉納とあることから、祭りの起源を示す重要な証拠であると考えられています。

【唐花六花鏡】
神門神社には33枚の銅鏡が保管されていて、これほど大量の銅鏡が1カ所に残されているのは極めて珍しいと言われています。
そのうちの1枚が、百済の国花であるスイカズラの紋様が施された「唐花六花鏡」。日本国内では5枚しか現存しておらず、そのうちの1枚は正倉院に保管されています。
これらの銅鏡は百済王の遺品と考えられていて、百済王伝説を裏付ける根拠の一つとなっています。

▲銅鏡の保有数は、奈良市、三重県の神島に次いで、全国で3番目。なぜこれだけの銅鏡が南郷にあるのか?南郷の百済王伝説は、大きな謎とロマンを秘めています。

お酒はほとんど呑むことがなかった須美雄さんですが、一度だけ肝臓を悪くして入院したことがあります。議会中のことでした。「村おこしは手間がかかる。その覚悟があるのか。」―須美雄さんが講演会で村おこしについて話すとき、最後はいつもこの問いで締めくくるそうです。

正倉院建設へ向けて

本家の正倉院と全く同じものを作る。
この全く前例のないプロジェクトには、予想をはるかに超えた、多くの障壁と困難が待ち構えていました。

まず、正倉院の実測図(設計図)は宮内庁管轄で門外不出であったこと。
1300年前の建物は現在の建築基準法に合わないこと。
本家の正倉院に使われているのはすべて桧材で、それだけの桧材の調達は大変難しいこと。
また、総予算16億円というお金のことなど、クリアしなくてはいけない課題は山ほどありました。

しかし、村長はじめプロジェクトメンバーの熱意と流した汗水が天に伝わったのか、いくつもの奇跡のような流れが重なり、正倉院建設が始められることになりました。

入札告示前のことですが、南郷の正倉院建設の話がまわって、全国有数の建設会社が「正倉院をつくるそうですが、私たちにやらせてください」と申し出があったそうです。
後の入札の際には、名だたる大手建設会社すべてが参加しました。
「大手が動いた!」―その時見えた実現の光に、須美雄さんの心は震えました。

大きな挑戦の中心部で

プロジェクトリーダーとして村おこしを引っ張る須美雄さんが、多くの障壁や困難を絶えず乗り越えられたのはなぜだったのでしょうか?

1つは、須美雄さんが神門神社の宮司の家系であったこと。
子どもの時に聞いていた周りの大人たちの話は、DNAのようなものとして須美雄さんの中に深く刻みこまれていました。
それは同世代の他の人たちとはやはり違うものがあり、百済の里づくりプロジェクトに関わることは、子孫としての宿命だったのではないかと、須美雄さんは考えています。

そして、もう1つは、いつも近くで「心配せんでいい」と言ってくれた、当時の田原村長のおかげだと須美雄さんは話します。
元々、須美雄さんのお父さんと同級生で、身近な存在だったため、話しやすかったそうです。

当時、2人が交わした会話にこんなことがありました。
村長 「(正倉院建設プロジェクトが失敗したら)自分は獣医に戻れるが、あんたはどうすっとね?」
須美雄さん 「私はそば屋をやりますわ。」

一見、冗談のようなやりとりですが、二人がそれほどの覚悟でやっていたことに違いはなく、また立場をこえて志をともにした戦友のような仲であったことは想像に難くありません。

▲3年の歳月をかけた木材探しでしたが、国の補修工事のため通常ではありえない区域の伐採が行われることになり、奇跡的に木材を調達できることになりました。写真は木曽に木材を確認しに行った時。右から2番目が須美雄さん。

ーinterviewー

南郷に名物のそば処「田舎屋 みかど」があります。
年に1回南郷のそば祭りで作られていた、地元の味である地鶏とごぼうのそばを提供しています。
そばの味はもちろん、店主の稔子さんの明るく元気なキャラクターと観光案内も評判となっています。
実はこの稔子さんこそ、須美雄さんの奥様なのです。

「田舎屋」の創業は昭和59年。
「神門に来て”ここ”という食べ物屋さんがない。」ということで、須美雄さんは誰かやる人がいないかと探していました。
しかし、誰もやる人が見つからず、最後は「あんたしかおらん。」と稔子さんに白羽の矢が立ったそうです。
須美雄さんと”考え方が一緒”という稔子さんは、当然のものとして引き受けました。
それから数十年、そば屋の店主として切り盛りする傍ら、須美雄さんの村づくりをともにやってきました。

家での須美雄さんについて伺うと、仕事の話はいつも楽しそうにしていたそうですが、苦労話や愚痴を聞いたことはなかったそうです。
いつも同じ方向を見て話してくれる稔子さんは、須美雄さんにとって心強い味方であり、自分の考えを再確認できる大切な拠り所だったのではないでしょうか。

ちなみにこのお店は、木造りの建物を中心とした町並みにしたいという須美雄さんの夢を形にしたもの。
「俺のものじゃないから町全体は無理やけど、自分のところのなら好きにできるやろ?」と須美雄さん。

▲昭和61年の第1回目の訪韓を皮切りに、南郷は韓国との交流を深めてきました。写真は田原村長(左)と韓国の元総理 金鐘泌氏(右)。百済の里づくりは、民族や立場を越えて、人と人との縁を大事に紡いできた交流の歴史でもあります。 金鐘泌氏(右)。百済の里づくりは、民族や立場を越えて、人と人との縁を大事に紡いできた交流の歴史でもあります。

須美雄さんは、南郷のことを話すとき「うちは」とか「うちでは」と話します。役場職員としてではなく、村おこしを生涯のテーマの一つとして生きてきた須美雄さんらしい表現。南郷の村全体が、須美雄さんの夢の舞台です。

「遠くから評価が始まる。」

百済の里づくりプロジェクトは、歴史学や考古学などと深くつながっていることもあり、学術関連の調査や取材がありました。
偶然にも、当時は研究者が地方に目を向ける時期であったため、次から次へと専門家が南郷を訪れました。
学問と聞けば尻込みしてしまう人も多い中で、須美雄さんは積極的に関わっていきました。
それには、須美雄さんの大きな性格の一つである”探求心”が功を奏したと言えます。
大学の先生が来るとなればその人の本を最低1冊は読むようにしていましたし、考古学の基礎を学ぶために日向市の放送大学に通ったこともありました。
知らないことも思い切ってどんどん尋ねました。

一度、南郷のことは日本書紀に載っていないのだけれど、本当に村に伝わるようなことがあるのだろうかということを尋ねたことがありました。
すると、相手の先生はこう答えました。
「日本書紀は権力者の都合の良い記録でもある。その裏側を調べるのが学問だ。」と。
はっきりとは立証されていない南郷の百済王伝説にとって、それは大変意味のある言葉でした。

村の人には理解されないことが、専門家や学術本などには珍重され、素晴らしいと言ってもらえる。
正倉院建設プロジェクトの裏で、専門家の評価が、須美雄さんの大きな力となっていました。

「やがて道は開く」

平成5年に行われた、造営材の搬入イベント「御木曳式」では、国道388号が3000人の人で溢れかえり、上空には3機の取材ヘリが飛ぶほどの一大ニュースとなりました。

そして平成8年、計画から10年の歳月を経て、西の正倉院は完成しました。
「今思い返してみれば、どこか上空から神様が我々を操っていたんじゃないかと思う。それぐらい不思議なことがたくさん起きた。」と、須美雄さんは話します。

道が開くと、あとはなだれのように流れていくばかり。
マスコミや視察団がどっと押し寄せ、韓国からのお客様も増えました。
町づくりの賞など、各界から多くの表彰を受けました。
笑い話ですが、あまりの状況に、「あんたらだいぶ飲ませちょっちゃろ?」と言われたこともありました。

宮崎県北部には観光資源となるものがないという意味を込めて「県北の夕暮れ」と表現していたかつての宮崎県知事が、百済の里づくりプロジェクトは〝県北に一点の灯りを灯した”として、道路工事の予算組みをしてくれました。

それまで須美雄さんたちは、すべてを百済の里づくりにつなげようとしていたので、当然、土木部門からはその予算で道路を作った方がよいという指摘もありました。
でも、須美雄さんたちはその先を見ていたのです。魅力を作ればやがて道ができると。

計画の策定段階で当時の村議会の議長が言った、「あんたたちがやろうとしている話は、四半的とか弓道のように1つの的にあててやるもんじゃなくて、ビリヤードみたいな話じゃね」という言葉が現実のものになりました。

▲「百済の館」は、百済最後の王都「扶餘(ぷよ)」の王宮跡にある建物をモデルに、交流のシンボルとして造られました。周辺に敷き詰められたタイルやあまり見かけない石積みは、須美雄さんが扶餘の町を歩いて生まれたアイデア。

▲師走祭りの最終日。台所用品を持った女性たちが「オサラバー」と声をあげながら一行を見送ります。「オサラバー」とは韓国の言葉で「生きてまた会いましょう」という意味だそう。チマチョゴリは交流に訪れた韓国の女子大生たち。

▲平成5年、韓国で行われた大田(てじょん)世界博覧会では、韓国より異例の市町村単位での招待を受け、百済王のご神体と共に海を渡り、里帰りセレモニーを行いました。対日感情なども心配されましたが、終始歓迎ムードだったそうです。写真は会場で打合せ中の須美雄さん(中左)。

▲住民を巻き込むために行った御木曳式では、大勢の村民が小学校区ごとに用意した台車を引いて、国道388号の名木橋から3kmの道のりを歩きました。

▲自分たちがやっていることは本当に正しいのかを確認するために応募した賞では、軒並み大賞を受賞し、町づくり、観光、建設など、各界から21の表彰を受けました。

▲「西の正倉院」完成のお披露目イベントで行われた、「開封の儀」。建設に携わった奈良国立文化財研究所や京都大学工学部のメンバーが儀式を執り行いました。プロジェクトが進んでいく中で、いつしか西の正倉院建設は、学術界を挙げてのプロジェクト(夢)となっていました。

本家「正倉院」を細部に至るまで忠実に再現した「西の正倉院」はインパクト大。国宝級の唐化六花鏡をはじめ、貴重な歴史考古資料が展示されており、間近に見ることができる。本家では見ることのできない中の構造も見もの。

須美雄さんの夢

ある時、市町村の会合に参加した須美雄さんは、椎葉の職員が(平家の郷という歴史があり)「わが村」に自信を持っているように見えてとても悔しい思いをしました。当時はまだ西の正倉院の建設前。南郷村の場所を説明するのに、「歌人・若山牧水の生家の奥の方」としか言えなかったそうです。
須美雄さんは会合から村に戻ると、「あんな風にならんといかん」と、すぐに村長に報告したそうです。

そして今や南郷と言えば百済の里、西の正倉院と、誇りと自信を持って言えるものを作ることができました。ですが、西の正倉院建設という大きなプロジェクトを成し遂げたことは、須美雄さんにとって一つの通過点にすぎません。

というのも、須美雄さんの心の中には、ずっと思い描いている風景があります。
それは明治36年ごろの南郷の町並み。
当時、近隣市町村に先駆けて、商業港として栄えていた細島(日向市)~神門間の県道が開通し、神門は物資の集積地として大変栄えていました。
しかし、昭和8年、富高(日向市)~椎葉間の道路などが開通したことをきっかけに繁栄は失われていったのです。

須美雄さんの夢は、その明治36年頃のような町のにぎわいを取り戻すこと。
その風景が現実のものとなるまでは、須美雄さんの夢は終わることはないのです。

「夢をくって生きちょるようなもの。」
人生をそう表現する須美雄さんにとって、夢は原動力。無限のエネルギーを与えてくれる存在です。
みんなの中心で夢を描きながら、須美雄さんの村おこしの道はこれからも続いていきます。

▲西の正倉院には、数多くの貴重な歴史資料が展示されています。展示物について訪ねると、須美雄さんは何でもすらすらと答えてくれます。そしてとっても楽しそう。ここにあるものは全部、まるで須美雄さんが見つけた宝物のようです。

▲西の正倉院には、本家とは数か所異なる箇所があります。柱の中にある大きな鉄板もその一つ。この中には水道管が通っており、建物内にはスプリンクラーが設置されています。時代にあった対処を行うことで、この先1000年でも建物を残していこうという思いの証でもあります。

▲大正11年の南郷の町並み(現在の駐在所付近)。多くの移住者が流入し、町には商店が立ち並び、一時は百貨店までありました。ハイカラな服装をする人や外車を乗り回す人もいたそうです。写真は『神門小学校創立百十五年記念誌』より転載。

episode 03

魅力を作って道が良くなった「国道388号」

遥かなる昔、金ケ浜に漂着した百済王族の一行が、奥へ奥へと進んだ道のり。南郷の村人たちが王族を受け入れ、後世に伝える祭りを守り続けた1300年の歴史が、正倉院建設、百済の里づくりへと結実し、国道388号は、過去と未来、国と国、人と人を結び続けています。

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